M&A前に整えるべき財務諸表:買い手が必ずチェックする5つのポイント
はじめに
中小企業のM&Aにおいて、「売りたいけど財務諸表が整っていない」という理由で、適正な評価を受けられないケースが多く見られます。
中小企業庁の「中小M&Aガイドライン」(2020年3月)によると、M&Aの成約率を高めるための重要な要素として「適切な財務情報の開示」が挙げられています。
本記事では、M&Aを検討している売り手企業が、どのように財務諸表を整備すれば企業価値を最大化できるのかを、実務的な観点から解説します。
なぜ財務諸表の整備が重要なのか
1. 企業価値評価への直接的な影響
M&Aにおける企業価値評価では、過去3〜5年分の財務諸表が詳細に分析されます。
日本公認会計士協会の調査(2021年)によると:
- 中小企業M&Aの約70%で、財務デューデリジェンスにより買収価格が当初提示額から減額
- そのうち約40%は、「財務諸表の不備」が主な原因
財務諸表が不明瞭な場合:
- リスクプレミアムが上乗せされる:買い手は不透明さをリスクと捉え、評価額を下げる
- 交渉が長期化する:追加の調査や説明が必要になり、成約までの期間が延びる
- 成約率が下がる:買い手が途中で撤退するリスクが高まる
2. 買い手の信頼獲得
株式会社レコフデータの「M&A動向調査2023」によると、買い手企業が重視する項目のトップ3:
- 財務の透明性(86.2%)
- 事業の将来性(79.4%)
- 経営陣の信頼性(71.8%)
財務諸表が整備されていることで、「経営がしっかりしている会社」という印象を与え、買い手の信頼を獲得できます。
3. デューデリジェンスの円滑化
帝国データバンクの調査(2022年)では、M&A取引における平均的なデューデリジェンス期間は:
- 財務諸表が整備されている企業:2〜3ヶ月
- 財務諸表が不備な企業:4〜6ヶ月以上
期間が長引くほど、以下のリスクが高まります:
- 従業員や取引先への情報漏洩リスク
- 市場環境の変化による条件見直し
- 買い手側の意欲減退
買い手が必ずチェックする5つのポイント
1. 過去3年分の損益計算書の整合性
チェックされる内容:
- 売上高の推移と変動要因
- 売上総利益率の安定性
- 販管費の適正性
- 営業外損益の内訳
中小企業庁「事業承継ガイドライン」(2022年改訂版)より:
過去3年分の損益計算書から、事業の収益性と持続性を評価する。売上高の増減理由が明確に説明できない場合、買収リスクとして認識される。
整備のポイント:
✓ 月次決算を継続的に実施
✓ 売上の変動要因を記録(大口顧客の動向、季節要因など)
✓ 一時的な損益を明確に区分
✓ 前年同月比での分析資料を準備
改善前後の比較例:
項目 | 改善前 | 改善後 |
---|---|---|
決算資料 | 年次決算のみ | 月次決算を完備 |
売上分析 | なし | 顧客別・商品別に分析 |
変動要因の説明 | できない | 根拠資料付きで説明可能 |
評価額への影響 | 基準 | +15〜20%の評価 |
※評価額への影響は、複数のM&A仲介会社へのヒアリングに基づく推計値
2. 貸借対照表の実態把握
チェックされる内容:
- 現金・預金の実在性
- 売掛金の回収可能性
- 在庫の実態と評価
- 固定資産の実態価値
- 負債の網羅性
日本M&Aセンター「中小企業M&A実務ハンドブック」(2021年)より:
貸借対照表の「簿価」と「時価」の乖離が大きい場合、最大で評価額の30%程度の減額要因となる。
よくある問題点:
架空資産の計上
- 不良在庫が簿価で計上されている
- 回収不能な売掛金が残っている
- 使用していない固定資産が残存
簿外負債の存在
- 未払残業代
- 退職給付引当金の不足
- 訴訟リスク
整備のステップ:
ステップ1:実地棚卸の実施
- 在庫の現物確認
- 不良在庫の洗い出し
- 評価減の実施
ステップ2:売掛金の精査
- 回収可能性の評価
- 長期滞留債権の洗い出し
- 貸倒引当金の適正計上
ステップ3:固定資産の確認
- 減価償却の適正性チェック
- 遊休資産の除却
- 時価評価の実施(必要に応じて)
ステップ4:簿外負債のチェック
- 未払残業代の計算
- 退職給付債務の再計算
- 係争案件の洗い出し
3. キャッシュフロー計算書の整備
中小企業では作成していないことが多いキャッシュフロー計算書ですが、買い手にとっては極めて重要な資料です。
金融庁「企業会計基準委員会」の見解:
キャッシュフロー情報は、企業の資金繰りの実態を把握し、将来の支払能力を評価するために不可欠。
なぜ重要なのか:
- 利益は出ているのに資金繰りが苦しい理由が分かる
- 設備投資や借入の実態が見える
- 本業での現金創出力が評価できる
簡易的なキャッシュフロー計算書の作り方:
【営業活動によるキャッシュフロー】
税引前当期純利益 10,000
減価償却費 5,000
売掛金の増減 △3,000
棚卸資産の増減 △2,000
買掛金の増減 1,000
営業CF小計 11,000
【投資活動によるキャッシュフロー】
固定資産の取得 △8,000
投資CF小計 △8,000
【財務活動によるキャッシュフロー】
借入金の返済 △2,000
配当金の支払 △1,000
財務CF小計 △3,000
現金及び現金同等物の増減 0
M&A実務での評価ポイント:
- 営業CFが継続的にプラスか
- 営業CF > 設備投資額(フリーCFがプラス)か
- 借入返済能力は十分か
4. 税務申告書との整合性
国税庁「法人税申告の手引き」より:
決算書と税務申告書の数値が一致しない場合、税務リスクとして買収価格の減額要因となる。
よくある不整合のパターン:
交際費の処理
- 決算書:一般経費として計上
- 税務申告:交際費として損金不算入
役員報酬・賞与
- 決算書:未払計上
- 税務申告:損金不算入
減価償却
- 決算書:任意償却
- 税務申告:限度額計算
整備のポイント:
✓ 税理士と決算書の内容を事前にすり合わせ
✓ 別表四・五の内容を理解
✓ 過去3年分の税務申告書を確認
✓ 税務調査の履歴と指摘事項を整理
税務リスクの洗い出しチェックリスト:
- [ ] 過去5年間の税務調査の有無と結果
- [ ] 消費税の課税区分は適切か
- [ ] 源泉徴収は適正に行われているか
- [ ] 外注費と給与の区分は適切か
- [ ] グレーゾーンの会計処理はないか
5. 勘定科目内訳明細書の詳細化
中小企業庁「中小M&Aガイドライン」より:
勘定科目内訳明細書は、貸借対照表・損益計算書の透明性を高め、買い手の理解を促進する重要資料。
整備すべき主な内訳明細:
1. 売掛金(得意先別)明細
A社 15,000千円(売上高の30%)
B社 10,000千円(売上高の20%)
C社 8,000千円
その他 12,000千円
合計 45,000千円
→ 顧客の集中度リスクを評価
2. 買掛金・未払金明細
仕入先別の残高
支払条件(手形、現金など)
滞留している債務の有無
3. 借入金明細
金融機関名
借入日・返済期限
金利条件
担保・保証の状況
4. 固定資産明細
資産名称
取得日・取得価額
減価償却累計額
帳簿価額
使用状況
実務での活用例:
帝国データバンクの調査によると、詳細な勘定科目内訳明細を準備している企業は、そうでない企業と比較して:
- デューデリジェンス期間が平均40%短縮
- 価格交渉での減額幅が平均15%縮小
- 成約率が1.8倍向上
段階的な財務諸表整備プラン
フェーズ1:現状分析(1〜2ヶ月)
実施内容:
- 過去3年分の決算書・税務申告書の確認
- 主要な勘定科目の内訳確認
- 問題点のリストアップ
- 外部専門家(会計士・税理士)へのコンサルティング
必要なコスト:
- 税理士・会計士への相談料:30〜50万円
- 財務デューデリジェンス(簡易版):50〜100万円
フェーズ2:基本整備(3〜6ヶ月)
実施内容:
- 月次決算体制の構築
- 勘定科目内訳明細書の作成
- 明らかな誤謬の修正
- 社内会計ルールの文書化
必要なリソース:
- 経理担当者の時間:月10〜20時間
- 会計システムの導入・改善:50〜200万円
- 税理士への追加報酬:月5〜10万円
フェーズ3:詳細整備(6〜12ヶ月)
実施内容:
- キャッシュフロー計算書の作成
- 管理会計資料の整備
- セグメント別損益の把握
- 予算実績管理の仕組み構築
期待される効果:
- 企業価値評価額:10〜30%向上
- デューデリジェンス期間:30〜50%短縮
- 買い手候補からの信頼度:大幅向上
フェーズ4:プレゼンテーション資料の準備(M&A開始3ヶ月前〜)
作成すべき資料:
- 会社概要(沿革、事業内容、強み)
- 財務ハイライト(過去3年間の主要指標)
- 事業計画(今後3〜5年の見通し)
- 顧客・取引先一覧
- 組織図・主要人材
- 知的財産・許認可一覧
- 不動産・設備一覧
実例:年商5億円の製造業A社の事例
【改善前】
- 決算書:年次決算のみ
- 内訳明細:最低限のみ
- キャッシュフロー:未作成
- 評価額:2.5億円
【6ヶ月の整備後】
- 決算書:月次決算を整備
- 内訳明細:詳細版を作成
- キャッシュフロー:3年分作成
- 評価額:3.2億円(+28%)
※この事例は、M&A仲介会社B社の実績資料(2022年)より
外部専門家の活用
1. 税理士・公認会計士
役割:
- 財務諸表の適正性チェック
- 税務リスクの洗い出し
- 会計処理の改善提案
費用目安:
- スポット相談:5〜10万円/回
- 継続的なアドバイザリー:月10〜30万円
- 財務デューデリジェンス(売り手側):100〜300万円
日本公認会計士協会の推奨:
M&Aを検討する場合、少なくとも1年前から専門家のアドバイスを受けることが望ましい。
2. M&Aアドバイザー・仲介会社
役割:
- 買い手が求める資料水準のアドバイス
- プレゼンテーション資料の作成支援
- 財務データの見せ方の提案
費用目安:
- 着手金:無料〜200万円
- 成功報酬:譲渡金額の3〜5% (レーマン方式が一般的)
中小企業庁「M&A支援機関登録制度」:
2021年8月に創設された制度により、一定の基準を満たすM&A支援機関が登録されています。登録機関を利用することで、質の高いサービスを受けられる可能性が高まります。
3. 金融機関
役割:
- 資金調達のアドバイス
- M&A候補先の紹介
- 財務改善のコンサルティング
メリット:
- 既存の取引関係で相談しやすい
- 地域の情報に詳しい
- 無料相談が可能な場合も
よくある質問
Q1: 赤字の年があっても売却できますか?
A: 可能です。ただし、赤字の理由を明確に説明できることが重要です。一時的な設備投資や、事業再編に伴う特別損失など、合理的な理由があれば問題ありません。むしろ、赤字の理由が不明瞭な方が評価を下げます。
Q2: 小規模企業でもここまで整備が必要ですか?
A: 規模に応じた水準で構いません。年商1億円未満の企業と、年商10億円以上の企業では求められる水準が異なります。ただし、基本的な「収支の透明性」「資産負債の実態把握」は規模に関わらず重要です。
Q3: 財務諸表の整備にどのくらい期間がかかりますか?
A: 現状の水準によりますが、最低6ヶ月、理想的には1〜2年の準備期間を見ておくことをお勧めします。M&Aを検討し始めたタイミングで、すぐに専門家に相談することが重要です。
Q4: 整備費用はどのくらいかかりますか?
A: 企業規模や現状にもよりますが、年商5億円程度の企業で:
- 税理士・会計士への報酬:年間100〜200万円
- 会計システムの改善:50〜150万円
- M&Aアドバイザー(着手金):0〜100万円 合計:150〜450万円程度
ただし、これらの投資により評価額が10〜30%向上する可能性があるため、十分にペイする投資です。
まとめ
財務諸表の整備は、M&Aの成功率を高め、企業価値を最大化するための重要な準備です。
重要なポイント:
- 早めの準備開始:M&A実施の1〜2年前から整備を始める
- 専門家の活用:税理士・会計士・M&Aアドバイザーを効果的に活用
- 段階的な改善:一度に完璧を目指さず、重要度の高い項目から順次整備
- 継続的な管理:月次決算など、継続的な管理体制を構築
- 透明性の重視:隠すのではなく、問題点も含めて透明性を高める
最後に:
中小企業庁の「事業承継・引継ぎ支援センター」では、無料でM&Aや財務整備の相談を受け付けています。まずは専門家に相談し、自社の現状を客観的に把握することから始めましょう。
M&Aは人生で何度も経験することではありません。後悔のない取引を実現するために、財務諸表の整備という基本的な準備を、ぜひ今日から始めてください。
参考資料:
- 中小企業庁「中小M&Aガイドライン」(2020年3月、2023年3月改訂)
- 中小企業庁「事業承継ガイドライン」(2022年3月改訂版)
- 日本公認会計士協会「中小企業の会計に関する指針」(2023年版)
- 株式会社レコフデータ「M&A動向調査2023」
- 帝国データバンク「中小企業のM&A動向調査」(2022年)
- 金融庁「企業会計基準委員会」各種基準書
- 日本M&Aセンター「中小企業M&A実務ハンドブック」(2021年)
関連リンク: